
2010年07月03日
青年部活動に参加して
明日、商工会青年部の事業で『若い経営者の主張発表大会』があります。
自分は経営者ではないんですが、読谷代表として立ちます。
せっかく原稿書いたので、ブログに載せようと思いまして、ぜもわざわざ自分の否をさらけるのもどうかと・・・
拙い文ですが、お時間ありましたら読んでみて下さい。
自分は経営者ではないんですが、読谷代表として立ちます。
せっかく原稿書いたので、ブログに載せようと思いまして、ぜもわざわざ自分の否をさらけるのもどうかと・・・
拙い文ですが、お時間ありましたら読んでみて下さい。
青年部活動に参加して
私は2006年から2008年までの3年間、青年部で部長を務めてきました。この3年間が自分にとってプラスだったのかマイナスだったのか、それともプラスマイナスゼロだったのか、今でもよく分かりません。
私の住む読谷村は人口約3万9千人余り、全国で2番目に人口の多い村です。近年、読谷補助飛行場跡など米軍用地の返還が進み、その跡地利用として様々な地域振興策が講じられ、今後益々の発展が期待されています。
私はこの読谷村で生まれ育ち、高校を卒業後2001年に㈱読谷ククルリゾート沖縄に入社しました。そこで私は入社から一貫して全国から来られる修学旅行生に対するコーディネーターを勤めています。当初60校4千名からスタートした修学旅行の受入も現在では年間1千校8万人近くになりました。一口に修学旅行と言っても地域や学校によって特色があり、受入にも試行錯誤の毎日です。今月末には創業時からの念願だった宿泊施設がオープンします。この会社に入って今年で9年になりますが、毎日が変化に富み、成長していく会社に愛着をもって仕事をしています。
私が青年部に入部したのは2003年の冬。きっかけはよくある話で、あまい誘い文句にまんまと引っかかった、そんな感じです。突然かかってきた1本の電話で関西に行きたいか?と聞かれ2つ返事でOKし、旅行申込書と思って書いたのは入部申込書、商工会や青年部という組織自体知らないままに、初めて会う部員と研修を大いに満喫しました。研修旅行の後は年数回ある事業に出来れば参加するといった程度で、青年部に対し特別な想い入れはなかったように思います。
入部して1年、呼ばれるはずのない会議に呼ばれ、何の話をしているのかチンプンカンプンの私に、いきなり次年度の副部長を打診され、部長にはその時初めて会った人が推され、副部長がどういう職でどういう位置にいるのか分からないまま引き受けてしまいました。そして部長の後について色々な会議・事業に参加し、酒の入った部長を自宅まで送るといった半ばお抱え運転手のような1年を過ごしました。本当はその間にも知らないうちに色々な経験をしたと思いますが、振り返るとその事だけが印象的に残っています。自分の前任だった岡本徹はだれにでも優しい人でした。1度だけ“今日は俺が運転するからお前飲んでいいよ”と言われたことがありました。しかし言った傍で自らビールを注文し飲み、“あっごめん”と言われ、その後はそう言う言葉すら発しなくなりました。優しいのかなんなのか分からない人でもありました。翌年、部長が定年を迎え卒部、残任期間を私が務めることになりました。その頃になってようやく組織の概要を理解したように思います。しかし、肝心の職の重さを実感するにはまだまだ先でした。
部長2年目には副支部長に推され、同時に県の理事に就任しました。会社では役職もつかない普通のサラリーマンが青年部では組織のトップ、ただその頃の自分はそんな事になんの矛盾も感じず、目の前の事を自分がやらないといけないと思いやっていました。社会に出て5年足らず、自分の身の丈も計れず、20代前半で部長になった事を周りから事ある毎に褒められ、自分は偉い・凄いんだと、自分でも気付かないうちに自惚れていたんだと思います。
その自惚れのまま3年間を過ごせればどんなに楽だったろうと振り返るたびに思います。部長時代、毎日のように今度の事業の準備は出来ているか、何か青年部で新しい事は出来ないか、地域の活性化は、次の定例会の議題は、と考えていましたが、それが苦になることはありませんでした。自分の手で地域を盛り上げよう、自分が組織を引っ張っているんだと自負していたからです。一方、人間関係を築いていくことは疎かにし、むしろそういうことがわずらわしく思っていました。何か事業をする上で外部の関係機関にお願いするのは分かるが、なんで部の人間にも参加のお願いをしないといけないのか、これは俺の事業じゃなくて青年部の事業だろう、参加して当たり前、こっちは部長なんだから先輩後輩は関係ないだろう、そんな考えでした。
そんな考えを改めることもなく参加した全国大会で各地の青年部員と会い、当然のように年齢を聞かれました。“へ~25歳で部長、凄いね~”そんなくだりから始まる、当時の自分には見ず知らずの人と話をするきっかけには最適でした。ただ会う人全てがそんな事を言うのではなく、なかには“読谷の青年部って最近出来たの”とか“最年長なの”“誰もやる人がいなかったの”とそんな事を言ってくる人もいました。自分はそんな風にしか見られていない、青年部長をやっているんじゃなくてやらされている、読谷の青年部はそんな風にしか見られていない、そうなると凄いね・偉いねって言われても心の中では逆のことを言っている、そう思うようになりました。
それが相手に対してだけであればまだ良かったのかもしれない、それで自分の自惚れを改めることが出来ていれば、自分はもっとマシな部長になれていたかもしれません。しかし愚かにも矛先は外ではなく内に向いてしまいました。何をするにしても自分は頑張っている、だから付いてきてよ、先輩たちがやりたくなかった部長を後輩がやっているんだからもっと頑張ってよ、口にこそ出しませんでしたがそんな風に思っていました。
青年部に入った頃、部長に就任した頃はストレスとは無縁でした。たとえ人間関係が難しくても青年部は自分がコントロールしているという自惚れがあったからです。しかし全国大会を境に、やることなすこと全てに不満が生じ、それを事務局に愚痴をこぼすようになり、憂さ晴らしに毎日のように1人で飲み歩いていました。
部長としての任期満了まであと半年となった夏、自分は最低の行動をとりました。自分の後任や候補も立てず、次年度の役員選任を全て部員に丸投げしました。どうせ先輩は後輩のお願い事は聞いてくれない、お願いされても断りやすいでしょ、だったら先輩たちだけで決めてよ、そんな考えからでした。それから半年間は自分と部員の間でなんとなくギクシャクした関係が続きました。2ヶ月たち3ヶ月経っても一向に進まない役員選任に不安を感じながらも自分から動くことはしませんでした。
現在の読谷村商工会青年部は、比嘉周平部長を筆頭に執行部がガッチリとスクラムを組み、部内の雰囲気も良いように思えます。部員の数も増えてきました。事業や定例会の参加率もあがっていると聞きました。一方の自分は、部長を降りた開放感から青年部に対するモチベーションが下がり、活動への参加が減ってきました。
今回、この主張発表大会にでることになりテーマをどうするかで迷いました。青年部では楽しい思い出もあります。あえてマイナスの話題をする必要はないと思いました。自分の会社についてでも良かったかもしれません。ただ、自分の中でどこかで区切りをつけたいとも思っていました。自分の職務を放棄し、後任に全てを押し付け、自分は隠居状態。かなり身勝手な奴だと思われても仕方ありません。実際に色々な場面で色々な人に迷惑をかけてきました。こんな自分に区切りをつける、そんな想いで今日この場に立ちました。
この原稿を書きながら思ったのは、なんだかんだ言って青年部長をした3年間は自分にとってプラスだったことです。自分の身の丈、謙虚さ、協調性、感謝する事。それらが足りなかったことに気付いた事は自分にとってプラスでした。あとはそれをどう満たしていくか。卒部まで残り12年、周りからはよく“もう1回部長になれるよ”と言われます。正直今の自分はもうやりたくないという思いが強いですが、もしそうなった時、今よりもマシな部長になれるよう、これから頑張っていきます。
最後に、くだらない愚痴を聞いてくれた事務局の大城拓人、一時の感情に任せ部長であるにもかかわらず会議を中座した自分の隣で黙って酒を飲んでくれた比嘉健作さん、憂さ晴らしのため通っていたお店のママであり部員だった池原静香さん、副部長の頃から自分を支えてくれた現在の部長である比嘉周平さんに感謝します。自分が青年部長を3年もやってこられたのは、彼等がいてそして読谷の部員がいてくれたからだと今は思っています。部長をしていた頃の自分に戻るにはもう少し時間がかかりそうですが、必ず戻ってきます。
読谷村商工会青年部
伊波 了
伊波 了
私は2006年から2008年までの3年間、青年部で部長を務めてきました。この3年間が自分にとってプラスだったのかマイナスだったのか、それともプラスマイナスゼロだったのか、今でもよく分かりません。
私の住む読谷村は人口約3万9千人余り、全国で2番目に人口の多い村です。近年、読谷補助飛行場跡など米軍用地の返還が進み、その跡地利用として様々な地域振興策が講じられ、今後益々の発展が期待されています。
私はこの読谷村で生まれ育ち、高校を卒業後2001年に㈱読谷ククルリゾート沖縄に入社しました。そこで私は入社から一貫して全国から来られる修学旅行生に対するコーディネーターを勤めています。当初60校4千名からスタートした修学旅行の受入も現在では年間1千校8万人近くになりました。一口に修学旅行と言っても地域や学校によって特色があり、受入にも試行錯誤の毎日です。今月末には創業時からの念願だった宿泊施設がオープンします。この会社に入って今年で9年になりますが、毎日が変化に富み、成長していく会社に愛着をもって仕事をしています。
私が青年部に入部したのは2003年の冬。きっかけはよくある話で、あまい誘い文句にまんまと引っかかった、そんな感じです。突然かかってきた1本の電話で関西に行きたいか?と聞かれ2つ返事でOKし、旅行申込書と思って書いたのは入部申込書、商工会や青年部という組織自体知らないままに、初めて会う部員と研修を大いに満喫しました。研修旅行の後は年数回ある事業に出来れば参加するといった程度で、青年部に対し特別な想い入れはなかったように思います。
入部して1年、呼ばれるはずのない会議に呼ばれ、何の話をしているのかチンプンカンプンの私に、いきなり次年度の副部長を打診され、部長にはその時初めて会った人が推され、副部長がどういう職でどういう位置にいるのか分からないまま引き受けてしまいました。そして部長の後について色々な会議・事業に参加し、酒の入った部長を自宅まで送るといった半ばお抱え運転手のような1年を過ごしました。本当はその間にも知らないうちに色々な経験をしたと思いますが、振り返るとその事だけが印象的に残っています。自分の前任だった岡本徹はだれにでも優しい人でした。1度だけ“今日は俺が運転するからお前飲んでいいよ”と言われたことがありました。しかし言った傍で自らビールを注文し飲み、“あっごめん”と言われ、その後はそう言う言葉すら発しなくなりました。優しいのかなんなのか分からない人でもありました。翌年、部長が定年を迎え卒部、残任期間を私が務めることになりました。その頃になってようやく組織の概要を理解したように思います。しかし、肝心の職の重さを実感するにはまだまだ先でした。
部長2年目には副支部長に推され、同時に県の理事に就任しました。会社では役職もつかない普通のサラリーマンが青年部では組織のトップ、ただその頃の自分はそんな事になんの矛盾も感じず、目の前の事を自分がやらないといけないと思いやっていました。社会に出て5年足らず、自分の身の丈も計れず、20代前半で部長になった事を周りから事ある毎に褒められ、自分は偉い・凄いんだと、自分でも気付かないうちに自惚れていたんだと思います。
その自惚れのまま3年間を過ごせればどんなに楽だったろうと振り返るたびに思います。部長時代、毎日のように今度の事業の準備は出来ているか、何か青年部で新しい事は出来ないか、地域の活性化は、次の定例会の議題は、と考えていましたが、それが苦になることはありませんでした。自分の手で地域を盛り上げよう、自分が組織を引っ張っているんだと自負していたからです。一方、人間関係を築いていくことは疎かにし、むしろそういうことがわずらわしく思っていました。何か事業をする上で外部の関係機関にお願いするのは分かるが、なんで部の人間にも参加のお願いをしないといけないのか、これは俺の事業じゃなくて青年部の事業だろう、参加して当たり前、こっちは部長なんだから先輩後輩は関係ないだろう、そんな考えでした。
そんな考えを改めることもなく参加した全国大会で各地の青年部員と会い、当然のように年齢を聞かれました。“へ~25歳で部長、凄いね~”そんなくだりから始まる、当時の自分には見ず知らずの人と話をするきっかけには最適でした。ただ会う人全てがそんな事を言うのではなく、なかには“読谷の青年部って最近出来たの”とか“最年長なの”“誰もやる人がいなかったの”とそんな事を言ってくる人もいました。自分はそんな風にしか見られていない、青年部長をやっているんじゃなくてやらされている、読谷の青年部はそんな風にしか見られていない、そうなると凄いね・偉いねって言われても心の中では逆のことを言っている、そう思うようになりました。
それが相手に対してだけであればまだ良かったのかもしれない、それで自分の自惚れを改めることが出来ていれば、自分はもっとマシな部長になれていたかもしれません。しかし愚かにも矛先は外ではなく内に向いてしまいました。何をするにしても自分は頑張っている、だから付いてきてよ、先輩たちがやりたくなかった部長を後輩がやっているんだからもっと頑張ってよ、口にこそ出しませんでしたがそんな風に思っていました。
青年部に入った頃、部長に就任した頃はストレスとは無縁でした。たとえ人間関係が難しくても青年部は自分がコントロールしているという自惚れがあったからです。しかし全国大会を境に、やることなすこと全てに不満が生じ、それを事務局に愚痴をこぼすようになり、憂さ晴らしに毎日のように1人で飲み歩いていました。
部長としての任期満了まであと半年となった夏、自分は最低の行動をとりました。自分の後任や候補も立てず、次年度の役員選任を全て部員に丸投げしました。どうせ先輩は後輩のお願い事は聞いてくれない、お願いされても断りやすいでしょ、だったら先輩たちだけで決めてよ、そんな考えからでした。それから半年間は自分と部員の間でなんとなくギクシャクした関係が続きました。2ヶ月たち3ヶ月経っても一向に進まない役員選任に不安を感じながらも自分から動くことはしませんでした。
現在の読谷村商工会青年部は、比嘉周平部長を筆頭に執行部がガッチリとスクラムを組み、部内の雰囲気も良いように思えます。部員の数も増えてきました。事業や定例会の参加率もあがっていると聞きました。一方の自分は、部長を降りた開放感から青年部に対するモチベーションが下がり、活動への参加が減ってきました。
今回、この主張発表大会にでることになりテーマをどうするかで迷いました。青年部では楽しい思い出もあります。あえてマイナスの話題をする必要はないと思いました。自分の会社についてでも良かったかもしれません。ただ、自分の中でどこかで区切りをつけたいとも思っていました。自分の職務を放棄し、後任に全てを押し付け、自分は隠居状態。かなり身勝手な奴だと思われても仕方ありません。実際に色々な場面で色々な人に迷惑をかけてきました。こんな自分に区切りをつける、そんな想いで今日この場に立ちました。
この原稿を書きながら思ったのは、なんだかんだ言って青年部長をした3年間は自分にとってプラスだったことです。自分の身の丈、謙虚さ、協調性、感謝する事。それらが足りなかったことに気付いた事は自分にとってプラスでした。あとはそれをどう満たしていくか。卒部まで残り12年、周りからはよく“もう1回部長になれるよ”と言われます。正直今の自分はもうやりたくないという思いが強いですが、もしそうなった時、今よりもマシな部長になれるよう、これから頑張っていきます。
最後に、くだらない愚痴を聞いてくれた事務局の大城拓人、一時の感情に任せ部長であるにもかかわらず会議を中座した自分の隣で黙って酒を飲んでくれた比嘉健作さん、憂さ晴らしのため通っていたお店のママであり部員だった池原静香さん、副部長の頃から自分を支えてくれた現在の部長である比嘉周平さんに感謝します。自分が青年部長を3年もやってこられたのは、彼等がいてそして読谷の部員がいてくれたからだと今は思っています。部長をしていた頃の自分に戻るにはもう少し時間がかかりそうですが、必ず戻ってきます。
終
Posted by RYO.I at 21:42│Comments(0)